top of page
Writer's pictureharuukjp

社畜にはなりたくないという娘



私が最初に「社畜」という言葉を耳にしたのは、いつのことだっただろう。その音の響きには、ある種の皮肉と憐れみ、そしてそれを呟く人間の静かな反抗心が滲んでいる。この造語は、会社の言いなりになり、長時間労働や低賃金を受け入れる労働者を指す。文句も言わず、ただ働き続ける姿には、ある種の美徳すら感じられるが、その美徳は多くの場合、過労と疲弊の陰に隠れている。


ある娘がいた。その両親は共に医師だった。父親は整形外科医で、緊急手術があれば病院に呼び出され、10時間以上も手術室に閉じ込められることがあった。母親は眼科医で、年中無休のクリニックで朝から晩まで働き詰めだった。


この娘にとって、両親の職業は尊敬の対象というより、どこか遠くに存在する「別の世界」のように感じられた。両親がいない家で、彼女は静かな孤独の中で育った。その孤独は、彼女の中に小さな芽を育てた。それは「社畜にはなりたくない」という思いだった。


中学生の彼女は、親たちの献身がどれほど価値のあるものかを理解するにはまだ若かった。彼女が感じたのは、親が自分と遊んでくれない悲しさだけだった。


高校生になった娘は、経済学を学びたいと話した。医学の道は、彼女の中ではすでに遠い過去の選択肢となっていた。それを聞いた両親は少し驚き、けれども特に反対することはなかった。むしろ、彼女の選択を尊重する道を選んだ。それが賢明だったのだろう。


医者という道も、社畜になるかどうかは本人次第だ。自らクリニックを経営し、成功を収める医師もいる。逆に、経済の道に進んだとしても、大企業の歯車となり「社畜」として働く可能性はある。それぞれの選択が正解となるかどうかは、結局のところ、働く中で何を学び、どのように生きるかによって決まるのだ。


彼女の選択を考えるとき、私は自分自身の若い頃を思い出す。何を選ぶかよりも、その選択をどう受け止め、どう進んでいくかが重要だったと、今になって思うのだ。働くことは、単なる労働以上のものだ。家族との時間や、人生における他の大切なものとのバランスを取る術を学ぶことでもある。


この娘もまた、いずれそのことを学び、自分なりの働き方と生き方を見つけるだろう。そして彼女の両親がそうであるように、何かしらの形で誰かを助ける仕事をすることを、私は密かに願っている。なぜなら、そうした仕事が人を本当の意味で豊かにしてくれるものだからだ。


文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から733日目を迎えた。(リンク⇨732日目の記事)』


最近の記事




おすすめの記事



Comments


bottom of page
PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 最高の人生へ
にほんブログ村