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車のクラクションは鳴らさないようにしようと決めた日

Writer's picture: haruukjpharuukjp


日照時間の短いイギリスの冬に、珍しく朝日が顔をのぞかせていた。気温は摂氏8度。冷えた空気が頬に心地よく、冬特有のしんとした静けさが街を包んでいた。

私はいつものように息子を学校へ送る準備をしていた。出発の10分前、車のエンジンを温めるために車へと向かう。その時間が妙に落ち着く。アイドリングするエンジン音が、まるで小さなストーブのように私を温め、冬の朝の静謐な時間にそっと溶け込んでいく。息子は決まった時間に家を出て、ぴったり車に乗り込む。それがいつものリズムだ。そして今日もそのリズムに乱れはない。

家を出ると、いつものようにゴミ収集車が道を塞いでいた。毎週月曜の朝に繰り返される光景だ。私は慣れた手つきでうまく迂回し、次の大通りへと向かった。


数十メートル進むと、見慣れた渋滞が視界に広がる。100メートル先のラウンドアバウトを中心に、朝の通勤時間帯には必ず車の列ができる。そんな中、私は列に入れてもらうタイミングをうかがう。イギリス人たちは譲り合いの精神が優れていて、今日もスムーズに私を渋滞の列に加えてくれた。マナーのよい運転が、この国の日常風景を穏やかに彩っている。

ノロノロと進む車の窓から、左手の農地に目をやる。生垣の隙間から犬を連れた近所のXさんが現れた。彼女は2匹の犬を引き連れ、私の前に出てきたので、車を止めて道を譲ることにした。彼女は私に気づくと、満面の笑顔で手を振ってくれた。犬たちはやや不安そうな顔で立ち止まるが、Xさんにリードを引かれながら渡り始める。


そのとき、対向車が現れた。ラウンドアバウトから50メートルほどの位置で、それほどスピードは出ていない。Xさんはそのまま渡り切れると判断し、足を進めた。しかし、対向車はスピードを落とすどころか逆に加速し、Xさんのほうへ向かってきた。そして、けたたましいクラクションの音が冷たい朝の空気を引き裂いた。

瞬間、Xさんが豹変した。いつも笑顔で挨拶を交わす彼女が、怒れる獅子のように体を前に突き出し、対向車に向かって大声で何かを叫び始めた。私は車の中でその光景を呆然と見つめたままだった。

「何だって?あのクラクションは必要だったのか?」そう思ったのは私だけではなかっただろう。彼女の怒りは明らかだった。きっと、こう叫んでいたのだろう。「うるさい!私たちはここを渡る権利があるんだ!スピードを落とさないなんて、何を考えているの!」まるで吠える犬のようで、飛びかからないように紐で首を引っ張られているかのように顔を前に突き出して、車に飛び掛かるのではないかぐらいの体制で大声で罵声を放っていた。

犬たちはどこか困惑した顔で、主人に引っ張られるまま道を渡り切った。


私が知っているXさんは、いつも穏やかで優しい人だ。近所の会話では決して声を荒げることはないし、どちらかといえば控えめな印象だ。しかし、そのXさんが感情をむき出しにする場面を目撃してしまった。それは、一種の文化的発見でもあった。イギリス人も、必要とあればはっきりと怒りを表現する。それが理不尽な行為に対してであれば、なおさらだ。

私の心には、その豹変した瞬間が妙に鮮明に焼き付いている。Xさんの笑顔と怒り、そのどちらもが彼女の一部であり、どちらも彼女を作っているのだと気づかされた朝だった。

車は再び渋滞の列に加わり、ラウンドアバウトを目指してゆっくりと動き始めた。冷たい朝の空気に戻った私は、ただぼんやりと次の信号を待ちながら、Xさんの表情の変化を頭の中で繰り返し思い浮かべていた。


文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から741日目を迎えた。(リンク⇨740日目の記事)』


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