生成AIのいる教室で、我らは何を学ぶのか
- haruukjp
- Jul 16
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昔、大学の講義室に座って、眠気と戦いながら先生の話を聞いていた時間が、今となってはなぜか少し懐かしく感じられる。黒板にチョークで何かを書き、それをノートに書き写す。実際にその内容が今の自分にどれだけ役に立っているのかなんてことは、たぶん今もわかっていない。でも、当時はそれが「学ぶ」という行為の、最も正しいやり方なんだと信じていた。
でも、今は違う。
今、大学の教室にはチョークの粉よりも、タイピングの音が響いている。そして、その音の先には、生成AIがいる。彼ら——大学生たちは、課題の文章を入力し、生成された答えを見つめ、時にそれをコピペして提出する。まるで自動販売機で缶コーヒーを買うように。
それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはまだよくわからない。でも、確かに言えるのは、何かが大きく変わろうとしているということだ。
彼らはAIで課題を出す。
ある調査によれば、日本の大学生の生成AI利用率は、わずか1年で1割から5割へと急増したそうだ。爆発的な数字だ。たとえば、文学部の学生が、夏目漱石についてのレポートを書くとき、まずAIにこう尋ねる。
「夏目漱石の『こころ』について、1500字で感想を書いてください」
そして数秒後、真面目そうな言葉が整然と並んだ文章が現れる。彼らはそれを少し整えて提出する。大学によっては、それを許容しているところもあるし、禁止しているところもある。ある大学は「教員の許可がない限り禁止」と言い、ある大学は「学生の主体性を尊重する」と言う。どちらが正しいのか、私には決められない。
でも、こう思う。
AIにレポートを書かせる行為は、海辺で貝殻を拾って、それを自分のものにするようなものじゃない。むしろ、誰かの集めた貝殻を自宅に飾るようなものだ。きれいだけれど、それは「自分が拾った」ものじゃない。その行為の中には、風の匂いも、濡れた砂の感触も、入り込まない。
教育現場は今、ゆっくりと困惑している
私は大学の教員ではないし、教育行政にも関わっていない。でも、音のない教室の中で、学生たちがAIに問いかける光景を想像すると、少しばかり寒さを感じてしまう。
大学は、正解を教える場所ではなく、「自分の考え方の筋力」を鍛えるための場所だったはずだ。たとえ間違っていたとしても、自分で考え、自分で表現する。そういう営みが、たしかにそこにはあった。
AIを使うこと自体が悪いとは思わない。問題は、それに全てを預けてしまうことだ。
今、多くの大学が「AIが生成した文章を見抜くシステム」を導入し始めている。まるで学生たちの裏庭に忍び込んで、どの花が自然に咲いたもので、どれが人工的に植えられたのかを調べる園芸家のように。
でも、本当に必要なのは「AIを使っていいかどうか」を決めることではない。必要なのは、AIを使ってもなお、自分の頭で考え続けることができるのかどうか、その力をどう育てるか、ということだ。
ビジネスの世界ではもっと静かに、そして確実に
学生たちがAIで課題を出す頃、ビジネスの世界でも、AIは静かに席を広げている。メールの返信、議事録の作成、報告書の草稿——いずれも、時間と手間を省いてくれる素晴らしいツールだ。
実際、私もAIにメールの下書きをお願いすることがある。たとえば、取引先に謝罪のニュアンスを含んだ丁寧な返信を送りたいとき。「柔らかく、でも誠意を感じさせる文面を」と頼むと、見事な文章が返ってくる。
でも、その文章をそのまま送ることはしない。なぜなら、それは僕の言葉ではないからだ。
AIが作った文章には、独特の「匂い」がある。きちんとしていて、礼儀正しく、でもどこか感情の起伏が平坦すぎる。完璧すぎる英語字幕のように、息継ぎのタイミングすら見失ってしまう。
あるとき、取引先から届いたメールが、明らかにAIの手によるものだった。難解な構文と、不必要に丁寧すぎる言い回しが続き、こちらは読み終える前に頭が疲れてしまった。そこで私は、もっとシンプルな言葉で提案を返した。すると、相手はすぐに「そちらの方が助かる」と返事をくれた。
人は、誰かの「声」を聞きたいのだ。AIの完成された文よりも、生身の体温が残る、未完成な一文のほうが、時として心に響く。
それでも、AIは僕たちのとなりに座っている
ChatGPTのような生成AIは、もう単なるツールではない。私たちと同じ机に座り、同じノートを開いている。時に答えをそっと示し、時に僕らの思考を代わりに記してくれる。
でも、そのとき私たちは、彼に全てを預けるべきなのだろうか?
多分、違う。
AIが生成した文をそのまま提出する学生も、メールの文面をすべて任せるビジネスパーソンも、きっと「自分の言葉」をどこかで探している。我らはその橋渡しをしなくてはならない。AIと自分の間にある、ほんのわずかな「差」を見つめ、そこに自分の思考や感情を差し込む。そうして初めて、その言葉は自分のものになる。
終わりに
私たちは、かつて図書館に通い、百科事典を開いて情報を得た。今、それは数秒で画面に現れる。便利だ。驚くほどに。でも、便利なものが常に良いものとは限らない。
AIは、魔法のような存在だ。でも、魔法にはルールがある。
自分の頭で考え、自分の言葉で語ること。それを忘れてしまったら、どんなに正しい文章を書いても、そこには魂が宿らない。
AIと共に生きる時代だからこそ、「考える」という、少し手間のかかる営みを、大切にしていたいと僕は思う。





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