最近では動画を撮ることや保存することが驚くほど簡単になった。そして、ある日ふとした拍子に、古い家族の映像を見返すことがある。デジタルの波に乗せられた記憶たちは、ひょんなタイミングで目の前に現れるのだ。
先日、SNSが「あなたの思い出」として7年前の映像を提示してきた。それは何とも懐かしい一場面だった。子どもたちはまだ幼く、大人たちの話を真似しては無邪気に笑い、時におどけた様子を見せていた。食卓を囲んでいる場面だったが、その雰囲気はどこか温かく、純粋な喜びがそこにあった。
しかし、その映像を見ながら、当時の生活の大変さも思い出した。幼い子どもを育てるということは、想像以上に繊細なことだ。おむつの交換、寝かしつけ、外出のタイミングを調整し、さらに食事は子どもが食べやすい別メニューを用意する。生活そのものが、まるで子ども中心に作り替えられていくようだった。そんな時期を愛おしく思う一方で、「よくやっていたな」と自分を少しだけ労いたくなる。
今、その子どもたちは10代になり、自分のことを自分でできるようになった。お腹が空けば台所でサンドイッチを作るし、時には夕食の支度を手伝ってくれることもある。掃除や洗濯も自然と分担してくれるようになった。確実に彼らは大人に近づいている。
それでも時折、あの小さかった頃の愛嬌や無邪気さが恋しくなる。例えば、娘がまだ幼かった頃、寝る前に私にハグをするのが習慣だった。それが彼女の一日の締めくくりだったのだ。でも今では宿題を終えるとさっさと自分の部屋にこもり、本を読みながら静かに眠りについてしまう。「ハグ」なんて言葉は、すでに彼女の辞書から消えたかのようだ。
私は娘の閉まった部屋のドアの前に立ち、少しだけ立ち尽くす。そして思う。「これも成長の一部なのだ」と。親離れの第一歩を感じつつ、それが避けられない自然な流れであることを受け入れようとする自分がいる。でも同時に、ほんの少しだけ寂しさも覚えるのだ。
幼い頃の愛嬌に満ちた日々と、今のように自分の意思で行動し、考え始める10代の姿。そのどちらも大切な時間であり、どちらもかけがえのないものだ。
成長とは、常に変化を受け入れること。その変化は時に温かく、時に少しだけ切ない。でも、こうした日々の積み重ねが家族の物語を紡いでいくのだと思う。
子どもたちが巣立つその日まで、私はこの変化を静かに見守ろうと思う。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から736日目を迎えた。(リンク⇨735日目の記事)』
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