
我が家の考え方は、ある意味で古風だったのかもしれない。私がサラリーマンとして、残業に次ぐ残業をこなし、いわゆる「バリバリ働く」ことに人生を捧げる。その間、妻は家庭を支え、子どもたちの成長を見守り、家の中の秩序を整える。
私は社外ではもちろん、社内でもコミュニケーション能力を発揮し、人間関係を円滑にしながら、ひたすら仕事をこなし、昇進を重ねてきた。そして、家に帰るとそこは安らぐ場所であり、私が心身を休める空間だった。家の中の管理は妻に任せ、私はその収入をもって、家族を海外旅行に連れ出す。そんなバランスで、我が家はうまく回っていた。
しかし、その均衡は突然の解雇によって崩れた。
仕事がなくなり、当然ながら収入も途絶えた。家にいる時間が増え、家族旅行も行けなくなった。そして何より、家という空間における私の役割が一変した。
これまで「仕事が終わって帰ってくる場所」だった家は、今や私が一日中いる場所となり、そこを維持する責任が生じた。問題は、私がその「維持の仕方」をまったく知らなかったことだ。
掃除をしても、妻の基準には到底及ばない。「掃除をした」という私の満足感と、「全然できていない」という妻の不満が、互いのすれ違いを生む。家の管理もうまくいかない。子どもたちの学校からのメールをチェックすることすら忘れる。かつては仕事に打ち込んでいた時間が、今はただの空白となり、その空白に妻の苛立ちがじわじわと染み込んでいく。
この状況に身を置いて初めて、世間の「定年後のサラリーマンが家に居場所を見つけられない」という話が、ただの他人事ではないと気づいた。仕事という役割を失うことで、家族の中の自分の立ち位置すら曖昧になるのだ。
では、どうすればいいのか。家のため、家族のために何かしなければ、単なる「同居人」になってしまう。それでは意味がない。同じ価値観で生きる人々の喜びや悲しみを共に感じられること——それこそが「家族」であると私は思う。その関係を維持するためには、互いに譲り合い、助け合い、そして相手の気持ちを感じ取ることが不可欠なのだ。
私は今、その「感じ取る」ということを、少しずつ学び始めている。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から810日目を迎えた。(リンク⇨809日目の記事)』
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