
Xさんは娘さんの卒業旅行として、イギリス、フランス、イタリアを巡る旅に出た。その最初の目的地がイギリスだった。そして私は、Xさん親子のアテンドをすることになった。ロンドンを発ち、車でオックスフォードへ向かう途中、私はふと思い出して昨年の話をした。
「そういえば、去年天皇陛下がイギリスにいらっしゃったとき、オックスフォードでお姿を拝見しましたよ」
Xさんはしばらく考えるように沈黙し、それから穏やかに微笑んだ。
「私の娘がね、天皇陛下のお子さんと学年がひとつ違いで、同じ学校に通っていたんですよ」
「へえ、それはすごいですね」私は言った。
「運動会とか、オーケストラの発表会とか、普通のお父さんみたいにお子さんの応援にいらしていましたよ」
「オーケストラの演奏会では、私の娘と同じグループで演奏されていたこともあって、私も天皇陛下のすぐ横に座ったことがありました。私は父兄の部の会長をしていたので、たまにお声をかけていただくこともありました」
私は少し驚いた。こんなにも身近に、天皇陛下と接することのできる人がいるのか。
昨年、オックスフォードで陛下の車列を見送ったとき、私は群衆の中にいて、他の誰かと同じように手を振った。そして陛下がこちらを向いて手を振り返してくださった。それだけのことで私は妙に感激し、「もしかすると、今のは私に向けて振ってくれたのかもしれない」などと勝手に思い込んだものだった。でもXさんにとって、それはごく普通のことのようだった。
旅のアテンドをしていると、いろんな人に出会うものだ。けれど、天皇陛下にこれほど近づいたことのある人と話すのは、私にとって初めての経験だった。
しかし、それ以上に印象的だったのは、Xさんの話の中にある「天皇陛下の普通のお父さんとしての姿」だった。運動会で応援する姿や、オーケストラの発表会で子どもたちを見守る姿。そんな話を聞くと、なんだか親しみがわいてくる。遠い存在のように思えていたものが、ほんの少しだけ、こちら側に寄ってくる気がする。
オックスフォードの午後、私はXさんの話を聞きながら、静かにそんなことを考えていた。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から807日目を迎えた。(リンク⇨806日目の記事)』
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