日本語には「親孝行」という特別な言葉がある。その響きには、親に恩返しをしようという具体的な行動や、感謝の気持ちが明確に込められている。一方で、西欧の多くの言語には、この「親孝行」に相当する言葉がない。代わりに「感謝(gratitude)」や「尊敬(respect)」といった、より抽象的な概念で語られることが多い。
「親孝行」という言葉が、バブル時代を生きた日本人たちの忙しさの中で特別な意味を持つようになったのだろうか?その時代、大人たちは家庭よりも仕事を優先し、親との時間を犠牲にして多忙な日々を送っていた。その結果、多くの人が、親に「ありがとう」と心から伝える間もなく別れを迎えたのではないか。
この背景を考えると、「親孝行」という言葉が日本人の感情をどれだけ支えてきたのかが分かる気がする。内気な性格を持つ人が多いとされる日本では、この言葉が一種の照れ隠しの役割を果たしていたのかもしれない。
イギリスでは、「親孝行」という言葉をわざわざ持ち出さなくても、親と子の自然なコミュニケーションがある。忙しい日々の中でも、家族と過ごす時間を大切にする文化が根付いている。子供が成長し、立派な大人として自立していく。その姿を親が見守り、誇りに思う。それが自然の流れとして存在しているのだ。
この視点から見ると、日本の「親孝行します!」や「親孝行してます!」という言葉が、どこか大げさで不自然に思えることがある。それは、本来、家族の中で自然に流れるべき感情を、意識的に言葉で強調しようとする努力の現れなのかもしれない。
私自身、親孝行とは何なのかを考えざるを得ない状況にいる。海外での生活を選んだ私にとって、親との物理的な時間の共有は難しい。親もその選択を受け入れてくれた。その結果、私の親孝行は「家族の健康で元気な姿を見せること」になった。
親は、私が送る孫たちの写真や動画を友人に自慢げに見せている。遠く離れていても、私たちが健やかに暮らしていることを知らせる。それだけで、親は安心し、自分の生活を充実させることができるのだと思う。
親孝行とは、大きなプレゼントや特別な行動だけを指すものではない。家族全員が健康で、事故も病気もなく、日々をしっかりと生きていること。それを伝えるだけで十分な場合もある。
もちろん、声を聞き、言葉を交わすことも大切だ。電話やオンライン通話を通じて、親に自分たちの生活の一端を伝える。それが、離れていても親孝行を果たすための一つの方法だと私は信じている。
「親孝行」という言葉があるかどうかに関わらず、親との関係の核心は、互いに助け合い、安心を与え合うことだ。その方法は、文化や国境を超えて様々だが、最終的にはシンプルな思いやりの行動に行き着く。
私たちは日々の暮らしの中で、それを実践していけばいい。そして、それが自然な形で続いていけば、親も子も幸せでいられるのだろうと思う。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から749日目を迎えた。(リンク⇨748日目の記事)』
最近の記事
おすすめの記事
留言