無職になった日、世界が静かに回り始めた|フリーランスと「自分らしさ」の話
- haruukjp
- Apr 10
- 4 min read

ある日、私は無職になった。理由は簡単なようで複雑だし、複雑なようで簡単でもある。
その日から、私は社会という大きな水槽の外に放り出されたような気分になった。空気は薄く、音は遠く、目に映るものがどこか現実味を欠いていた。
まるで、「世界が自分を必要としていない」と、そう告げられた気がした。
無職と虚無感、そして時間が癒すということ
職を失うというのは、単に収入がなくなるという話ではない。それはもっと深いところで、「社会に存在する意義」みたいなものが、急に宙ぶらりんになることだ。
当然ながら、虚無感はやってくる。朝が来ても起き上がる理由が見つからない。食事をしても味がしない。時計の針の音だけがやたらと大きく聞こえる。
でも、時間は不思議だ。無言で、文句も言わず、ただただ流れながら、私の傷を少しずつ癒してくれた。毎日のルーティン、例えば朝のコーヒーや、天気のことを気にする習慣、些細なことが、少しずつ私を現実へと戻してくれた。
フリーランスとして生きること、それは自分との対話
それから、私はフリーランスとして生き始めた。「自分のやりたいことを仕事にする」という、よくある言葉の魔法にかかったのだ。
実際、それは素晴らしかった。好きな時間に起きて、好きなことを学び、好きな人とだけ関わる。そんな自由の中に身を置くと、自分という存在が少しだけ輪郭を取り戻してくる。
だけど、その自由には責任もついてくる。私は飽きっぽい性格だ。熱中して、数ヶ月で冷めて、また次のことに飛びつく。それは若い頃には武器にもなったが、今ではどこか罪悪感を伴うクセにもなっている。
「私は継続できない人間なのかもしれない」そんな思いが胸の奥で、たまに顔を出す。
自分らしさと社会のあいだで
私が持つ「スタイル」は、社会の規範とはときに噛み合わない。「ひとつの仕事を長く続けることが正義」という文化のなかで、私はいまだに自分の正解を探している。
でも、子どもたちは今、成長のまっただ中にいる。彼らのためにも、私はこの仕事を諦めるわけにはいかない。
そして、なんとなく、ほんの少しだけれど、「これかもしれない」と思えるものが見えてきている。その輪郭はまだはっきりしない。でも、確実にそこにある気がする。
フリーランス生活2年、壁と向き合う季節
気づけば、フリーランス生活も2年が経った。自分の中で「次のステージ」に進むには、越えなければならない壁が目の前に立っている。背が高く、厚く、色も重い。だけど、どこかでそれを乗り越えたら、景色が一変する気もしている。
1年後の私は、どうなっているのだろう。いまは、そんなことを静かに考えながら、自分を少しずつ整えている。
壁は、誰にでもある。私にもある。
人生には、いくつかのタイミングで「壁」がやってくる。それは20代にも、30代にも、そして40代・50代になっても変わらない。その壁にぶつかるたびに、私たちは「自分は何者なのか」を試される。
私にとって、今がその時期だ。でも、悪くはない。こうして、自分と丁寧に向き合う時間も、案外、悪くはないのだ。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から859日目を迎えた。(リンク⇨858日目の記事)』
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